小川栄一・小川コレクション

 小川栄一は明治14(1881)年2月17日、揖斐郡鴬村に生まれました。明治31年3月岐阜県立岐阜中学校を修業して、愛知県立医学校予科に入学、34年に修業して愛知県立医学専門学校本科に入学しましたが、38年12月に健康上の理由から中退し、名古屋商業会議所に就職しました。明治42年には帰省し、代用教員、鴬村収入役、揖斐郡志編纂委員、県文化財専門委員などを歴任しました。
 栄一は子供の頃から、土器や瓦を採集していましたが、親はそれを嫌い、しばしば捨てられてしまいました。名古屋へ下宿してからも、しばしば採集に出かけており、明治38(1905)年、熱田神宮の裏で兵器廠の工事が行なわれ、3月13日にその断面から貝層を見つけ、それを探っていくと石器・土器を発見しました。これが熱田貝塚の最初の発見です。それを東京の研究者らに連絡したことが契機となり、発掘調査が行なわれました。栄一はこのことを常に業績の筆頭に挙げており、これをもって自分の考古学の原点としています。 美濃に戻ってからは、野外調査に没頭し、美濃全域の調査に努めました。交通手段のない時代のこと、とにかく歩き回りました。収集資料のほとんどが採集品ですが、収集家同士での交換によって得た資料、あるいは土地の人から貰ったり買い求めたりした資料もあります。また、他者の資料は拓本をとり、時には石膏模型を作って研究資料とし、古文書や絵画は模写し、とにかく資料の集成に努めました。その結果、収集した資料は3万点余りに及びます。
 昭和38年2月1日、栄一は81歳で亡くなり、昭和49年からは次男の弘一が資料を管理、平成10年7月4日に弘一が亡くなり、その後は孫の貴司が保管しています。
 栄一の収集資料は考古学が中心ですが、歴史・民俗・戦災・宗教・金工・自然などと多方面に亘っており、収集資料のみならず、栄一の調査研究記録や拓本資料を含んでいます。また、日誌から世相や交通事情の変化、電報の活用法などを知る手掛かりがあり、多方面から活用できる資料です。
 現在では、栄一の収集資料に弘一・貴司の追加資料、小川家の一部伝世品も含めて「小川コレクション」と呼ばれています。
 小川コレクションは、県史・市史などに必ず掲載されています。このような資料は個人が持ち続けるべきではないと考えており、資料の保存・整理・活用を真剣に考える機関に寄贈したいと考えています。
調書類
 栄一の研究方針は、現場第一主義です。とにかく現場を歩き回り、少なくとも年に1回、 重点地区は年に数回も訪れていました。そして、それを丹念に記録していました。
 この写真は、中林寺・柄山窯址に関わる記録類です。この件だけで40冊以上もあります。現在、目録を取り続けていますが、未だに何冊あるか分かりません。その量は天井 まで平積みしたとして、およそ5段以上と思われます。恐らく2〜3千冊くらいでしょうか。 この中には消滅した遺跡・古墳などの記述、あるいは知られていない資料に関わる記録 があり、正に宝の山とも汚い和書とも言えます。それを決めるのは皆さんです。

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古墳調書
 栄一は明治から昭和初期にかけて、美濃の古墳を一通り調査しました。その結果、美濃に存在する古墳の数を約3千基としています。
 これは各務原市の塚越地区の古墳群の図です。昭和初期にはこれだけの古墳群が存 在しましたが、今ではほぼ消滅しています。
 栄一は、美濃のほぼ全域を歩いてこのような古墳群の図を作っていました。しかし、一括で貸出することが多かったためか、心ない者が一部を返却していません。山縣郡編に至っては、栄一の生存時に既に返却されなかったようで、記憶で新たに作り直しています。『美濃国前方後円墳図譜』は何と県の文化財審議会において紛失しています。
終戦直後の裏紙調書
 終戦直後は、著しい紙不足となったようで、栄一の調書の体裁は、不要となった調書の裏、別の調書の余白を切り取ったもの、印刷物の裏など、あらゆるものを再利用していました。どんな状況にあっても、調査・研究の意欲だけは、失わなかったようです。
 このような裏紙利用の調書は、昭和20年9月から22年8月まで見られます。
なぜ整理が必要なのでしょうか?
 古い調書を今、なぜ整理する必要があるのでしょか。
 それは、失われた遺跡の情報を復元できるからです。たとえば、昭和30年代まで、岐阜の山々には古墳群が見られました。しかし、山裾の古墳や各務原台地の古墳は次々と破壊されていきました。その状況から、岐阜の古墳は山から山裾にかけて造られたと考えていました。ところが、栄一の記録を見ると、明治から大正にかけても、同様の破壊が進んでいたことが知られます。そして、栄一自身も跡形もなくなった古墳を古老たちから聞き書きしているのです。
 つまり、岐阜の古墳は平野部から山まで存在していましたが、平野部の多くは明治期に破壊されていたのです。我々はその事実さえ知らずに岐阜の古墳時代を論じています。
 今、必要なことは、平野部の開発の折には遺跡の確認されていない地域でも遺跡確認を行なうこと、そして古記録から遺跡を復元することでしょう。
 また、岐阜では行政の中に専門職が入ったのは最近のことで、それまでは資料収集も研究も個人が行なっておりました。そのために行政が扱う場合でも不十分な知識で扱った場合があります。個人の家では明治以来、三代前後の代替わりが進んでおり、正確な情報の途絶える場合が少なくありません。公民館や小学校などに残された資料は、紛失だけでなく出土地の混乱は避けられない状態です。
 このような事情から古記録を整理することにより、誤りの修正、混乱資料の解決を計れるだけでなく、現在、行方の分からない資料や、更にその捜索にも役立ちます。このほか、民俗調書からは当時の風習が分かります。梵鐘の拓本の中には、戦時中に供出させられて現存しないものがあると思います。
 これらの理由から、栄一の残した記録や拓本は、岐阜にとって重要な資料と言えます。
 当家の資料は自ら山野を歩き回って収集したもの、交換したもの、蒐集者等から購入したものが含まれています。購入費の他、保管・維持にも莫大な費用を掛けており、行政の成すべきことを百年も行なって来たという自負があります。当家では栄一の記録類・収集資料の整理・保存・活用を行なう機関への譲渡を考えています。

美濃徴古館 小川栄一著作目録