美濃の前方後円墳
美濃の前方後円(方)墳 古墳の名称 前方後円墳認定の経緯
美濃の前方後円(方)墳の数 栄一の記録した前方後円墳 各務原の前方後円墳

美濃の前方後円(方)墳
 前方後円墳は3世紀から7世紀初めまで、400年ほど築かれた墓で、その時代の地域の様相や有力者の動向を知るのに都合の良い材料となってい ます。
 それでは美濃に前方後円墳(および前方後方墳)は何基あるのでしょうか?この質問に正確に答えられる者は誰もいません。因みに1992年に刊行さ れた『前方後円墳集成』では65基、その1〜2年のうちに8基ほど増加したと書かれています。つまり、1990年頃までに知られていた数は60基弱という ことです。恐らく、現状ではこれが状況をよく掴んだ数値でしょう。
 しかし、現在の認識に対していくつかの問題があるのではないかと考えます。一つは消滅古墳の引用文献において原典の誤認のあること、情報源が 不明確に陥っていること、未公開資料のあることなどです。
 美濃では小川栄一だけでなく、林魁一氏・藤井治左衛門氏といった岐阜県考古学の創始者たちが古墳を踏査し、それが現在の基礎となっています。 ただ、第1世代の踏査した原典は未だに公開の機会がなく、それらは部分的に借用されたり紛失したりして引用されています。引用文献においてその 事実を明示しない場合に却って混乱の原因になっています。
 現時点においては、単に第1世代の記録を公開するだけでは混乱解消や不足情報の提示になりません。個々の古墳において、認定の経緯から名 称、出土品はもとより、外観の変遷まで含めて一々確認する必要があります。そしてカルテを作っておく必要があります。
 栄一の調書は古墳編が数百冊ですが、ばらのメモ、袋折りの中に挿し込まれたメモ、古墳外の調書の中に記された記録もあるため、最終的には数万 ページの全てに目を通さないと、完全な整理にならない状況です。因みに現在、私が掴んでいる中で言えば、栄一が踏査した未公開の前方後円墳は 20余基ありますが、これを単純に含めてよいのかどうかが問題です。なぜなら、第三者がこれを元に公開した場合、あるいは誤認した場合があり得るため、それらを識別しなければならないこと、そして確かに前方後円なのかどうか検証する必要があるからです。
 これらの意味も含めて、現在、確かなカルテが必要なのです。
古墳の名称
 古墳の名称は勝手に付けて良いものではありません。地元で周知の名称がある場合はそれを優先しますが、ない場合は旧字名で付けるルールがあ ります。
 栄一に限らず、第1世代は古墳に命名していません。調書のタイトルに「登越古墳」とあっても、これは「登越に所在する古墳」という意味で、固有名詞 ではありません。
 しかし、その後このルールを知らない人がいたせいか、それとも自分で命名したいという意図が働いたせいか、ルールに反する名称も出現していま す。
 因みに、栄一は「美濃国に存する古墳名称」という原稿を大正期に執筆していますが、残念ながら発表していません。古墳の名称自体を研究対象 としており、命名には極めて慎重な姿勢で臨んでいます。
 以下は美濃の前方後円(方)墳の名称ですが、「大塚」「長塚」などは各地にあるため、字名を付けて区別しています。ただし、「前波西寺山古墳」の地 元呼称は「寺山」で、「西」が付随した経緯をまだ確認していません。推測で言えば「東寺山」と区別するために「西」を付けたのではないかと思います が、「東寺山」も地元では「寺山」だったのかどうか、この点も確認していません。
固有

矢道高塚・矢道長塚・昼飯大塚・昼飯ゴショカイト・遊塚・粉糠山・上磯亀山・上磯北山・上磯南山・城塚・宗慶大塚・富塚・鎧塚・琴塚・南塚・オ ハカツカ・舟塚・野口長塚・坂井狐塚・ヒサゴ塚・坊の塚・金鳥塚・川合狐塚・前波長塚山・前波西寺山
字名 南屋敷西・登越・不動塚・乾屋敷・的場・郷戸・天野・前波野中西・中切
山名 円満寺山・象鼻山1号墳・象鼻山4号墳・花岡山・花岡山頂上古墳・船来山98号墳・船来山96号墳・船来山26号墳・柄山・荒井山・東寺山1号 墳・東寺山2号墳

前方後円墳認定の経緯
 前方後円墳が塚であるという認識は、江戸時代からあったようです。つまり、第1世代が独自調査によって認定した場合と、地元伝承を認定し報告し た場合がありますが、厳密に区別していないのが実情です。前方後円墳の認定または報告を行なった第1世代の人物は、主に小川栄一・林魁一・藤 井治左衛門の三人です。三人とも自ら発表していますが、未公開の踏査記録が少なくないため、第二世代がそれを借用して発表、あるいは一部記録 から推測して発表する形となりました。この時点で誤認が生じています。
 つまり、現時点で必要なことは、第一世代の原典の公表なのです。
第1世代認定 矢道長塚・矢道高塚・花岡山・昼飯大塚・遊塚・粉糠山・上磯亀山・上磯北山・上磯南山・城塚・南屋敷西・登越・不動塚・乾屋敷・宗 慶大塚・琴塚・柄山・坊の塚・金鳥塚・舟塚・須衛会本西・前波長塚山・前波西寺山・前波野中西・東寺山1号墳・東寺山2号墳・中切古墳・愛宕神社・夕田茶臼山
同上 消滅 富塚・野口長塚・南塚・オハカツカ・荒井山・フナ塚東北・ヒサゴ塚・郷戸・天野・天野南古墳・川合狐塚・上恵土長畑・土田往還北・土田渡
消滅・栄一聞書き 的場・坂井狐塚・跡部無名(伝大跡部皇子陵)
弘一発見認定 龍門寺(詳細は後日公表予定)
その後の認定 円満寺山・象鼻山1号墳・象鼻山4号墳・花岡山頂上古墳・荒尾1号墳・中八幡古墳・モタレ・船来山98号墳・船来山96号墳・船来山 26号墳・白石6号墳・白石5号墳・北ヶ谷1号墳・東町田SZ10号墳・東町田SZ02号墳・内山1号墳・大牧1号墳・桑原野山1号墳・美濃観音寺山・高倉山古墳

美濃の前方後円(方)墳の数
 冒頭で述べたように、『前方後円墳集成』では65基、1990年頃までに知られていた数は60基弱という認識です。しかし、未公開資料や候補資料が25 基ほどあるため、それを検討しなければなりません。また、周知資料の中には問題を抱えたものもあるため、見方を変えて手元の資料を数え直します と、公表・周知38基、未周知25基、新規発見・認定26基、要検討13基、合計102基となります。
 この他に、未踏査地域から新たに発見される可能性は多大で、また現代の調査によって前方部が確認される例がありますから、少なくとも120基程度 には増えるでしょう。更に前庭部をもつ周溝墓のようなものが調査によって追加されていくでしょうから、最終的に何基になるか見当もつきません。要は 地道に検証を続けなければならないということ、そして決して60基や70基ではないということです。

栄一の記録した前方後円墳
 栄一が美濃の研究を始めた時、美濃ではまだ前方後円という認定はありませんでした。栄一は奈良・大阪の陵墓を見学して、前方後円墳を独学し、 その知識をもって美濃の中で探し始めました。そのために栄一の基準は高く、典型的なもの以外は可能性として記録するものの認定していません。実 際に外観観察だけでは難しいという側面もありますが。
 栄一が公表した前方後円墳は40基ほどですが、それ以外に公表の機会のなかったもの、候補資料が25基ほどあります。
これらの検討が今後の課題です。

矢道高塚

矢道長塚

粉糠山

遊塚

昼飯大塚

琴塚

上磯亀山

上磯南山

上磯北山

城塚

南屋敷西

登越

不動塚

乾屋敷

野7号墳

柄山

坊の塚

野口長塚

桐野南塚

荒井山

洞瓢塚

舟塚

郷戸

富塚

前波長塚

前波野中西

前波西寺山

東寺山 (東墳の前方部も大正初期には存在していた)

川合狐塚
(深い水湟に阻まれて入れないまま、
大正末期に消滅してしまった)

上恵土長畑

夕田茶臼山

高畑


 以下は未公開分の一部で、栄一が前方後円墳候補として検討しているもの、認定したもの、しなかったものがあります。それにしても80m級の前方後 円墳が未だに忘れられているのは驚きです。

本巣

本巣深田

揖斐清水

不破ゴショカイト

各務舟塚東北

武儀大跡部
幕末に前方部削平と伝わる

揖斐休名
円墳2基にしては余りに美しい

可児往還北

加茂大山
右が候補だが、左も気になる
各務原の前方後円墳
 美濃における前方後円墳の分布を見ますと、大垣市昼飯や揖斐郡大野町野では集中する現象が見られます。それに対して、各務原では現存数は少 ないのですが、栄一の記録を見ていくと、狭い範囲に10基以上も集中する現象は見られませんが、いくつかのまとまりを見せながら散在するために、各 務郡全体のの前方後円墳は多数となっています。これらの多くは比較的新しい古墳です。各務郡は7世紀に至って発展し、その結果として壬申の乱に おいて郡司村国男依が立役者となったと思われます。その発展の経緯を研究するにあたって、6世紀代の前方後円墳の分析から始める必要がありま す。

各務郡の前方後円墳分布図
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