史跡の昔と今

 美濃には数千基の古墳があったと思われますが、その大半は消滅しました。明治の中頃より史跡保存の運動は起こっていましたが、史跡の領 域を保存するだけで、其の景観までは考慮されていません。それを言えば、今でさえ景観保存条例を制定している自治体は飛鳥など、ごく少数で す。
 余り好きでないたとえ話ですが、眼の見えない方が象を触った時、鼻を触った人は細長いものと思い、足を触った人は太いものと思い、・・・という 話があります。しかし、史跡はもはや1m以下の至近距離で、象を見ている状況になっています。せめて残っているものだけでも保存するなら、現在 が最期のチャンスなのです。
 このページは整理の出来たものを順次追加しますので、時々見て下さい。

岐阜市 琴塚古墳

琴塚古墳 東から 大正14(1925)年3月24日
 琴塚古墳は岐阜市琴塚に所在する全長120 mほどの前方後円墳です。二重の周壕を持ち 形状の整った岐阜県を代表するッ前方後円墳 です。地元では景行天皇の妃、五十琴姫の墓 と伝わっています。我々はこの古墳が史跡とし て残ってきたことを当たり前のように思っていま すが、実は明治期に破壊されつつあったので す。墳丘・周壕の全てが個人の土地で、林の部 分、墓の部分、そして少しずつ開墾が進んでい ました。そんな時、地元の足立太助氏の夢の中 に女性が現れて、助けを求めたそうです。そこ で、募金運動を始め、琴塚の土地を全て買い取 って県に寄付し、史跡として指定を受け、今日 に至った訳です。それは明治20年代のことで、 栄一はまだ10歳前後のことです。太助氏らの御 尽力がなければ、他の古墳と同様に開墾され てしまっていたことでしょう。現代でも中々出来 ない活動を、既に明治中頃に行っておられたこ とを我々も認識し、感謝しなければなりません。
 琴塚の周辺は畑でしたが、昭和40年代の中 頃から急激に人家が建ち始め、今では全体の 景観が見られなくなってしまいました。墳丘の 保存はできても、景観の保存の出来ないことは 残念です。

同上  2003年2月24日

琴塚古墳正面  南から 大正14(1925)年3月24日

同左  2003年2月24日

揖斐郡大野町 上磯古墳群
上磯古墳群は古くから注目されてきた古墳群で、前方後円墳2基、前方後方墳1基が現存しています。少しずつ宅地化され始めていますが、まだ景 観を眺めることは可能です。このホームページで、「野古墳群」のページがありますので、参考にしてください。

南東から見る。左から南山古墳、亀山古墳、北山古墳
大正年間(1912〜26)撮影

同左。2003年2月25日。建物が建て込んでおり、亀山は樹木の先しか 見えなくなった。

南山古墳。この時点でも土取りされていた。 大正年間

同左。2003年2月25日中央は土取りでなくなっている。

北山古墳。南東より。大正年間

同左。平成15年2月25日。南側は建て込んでいる。

亀山古墳。西北西から。大正年間

同左。2003年2月25日。南側に人家が建て込み始めている。

揖斐郡大野町 野古墳群
 ほとんどの史跡が消滅または景観を損ねる中で、野古墳群は奇跡的にかつての景観を残しています。むしろ伐採により古墳としての景観はよくなっ ています。これだけの景観を維持している古墳群は、恐らく全国的に見ても極めて重要と言えるでしょう。何とかこの景観を次世代に残せないか、と心 底から願っています。

南出口古墳。南東より。昭和3(1928)年3月12日撮影。

同左。2003年2月28日撮影(以下、同日)。墳形が分かり易くなった。

登越古墳。西南西より。昭和3(1928)年3月12日撮影。

同左。たまたま用水工事中だったが、基本的に相違はない。

南屋敷西古墳。東より。昭和3(1928)年3月12日撮影。

同左。擁岸壁に変わったが、伐採により墳形はよく分かるようになった。

本巣郡真正町 宗慶大塚古墳


南より。昭和14(1939)年2月17日撮影

同左。2003年2月25日(以下、同日)。この画角の左右は建て込んでお り、景観の維持はこの水田の持ち主次第という状況。

北より。昭和31(1956)年7月31日撮影

同じ画角では建物に阻まれて見えないので、北西より撮影。

西より。昭和31(1956)年7月撮影か

同左。アスレチック遊戯場となっている。

北側括れ部。昭和26(1951)年12月。

同左。史跡公園として、周壕が復元されている。

各務原市 柄山古墳と柄山窯址群
 柄山は古くから瓦が散乱していたようで、「かわら山」が訛って「からやま」となったと考えられています。独立丘で、西に前方後円墳、東側頂上に 円墳2基、そして東南傾斜面に奈良時代の窯址群が形成されていました。昭和19年、食糧難から陸軍が開墾し始めましたが、栄一は「時代がら已 むを得ないとしても、前方後円墳だけは手を付けないように」と指示して保存しました。しかし、昭和32年に至って、前方後円墳を除く丘陵の全てが 削平されてしまいました。

柄山古墳。南より。昭和9年11月4日撮影。


同左。2003年3月25日。麓の景観が悪くなった。昭和40年代までは 墳形が奇麗に見えたが、樹木の繁茂によって見えなくなった。
柄山はこの右側の方が高かったが、削平された。

柄山窯址群。南東より。昭和3年3月18日撮影か。

同左。昭和32年に山ごと削平され、その後、東側に道ができている。
左端樹木は柄山古墳。

各務原市 木戸礎石群と山田寺
各務原市蘇原地区は古代の美濃の中心と思われ、重要な遺跡が多数確認されています。その中で、現山田寺の西側に礎石群が古くから露呈して おりました。この一帯に人家はほとんどなく、景観も保存されてきましたが、今や一部は消滅し、一部は削り取られ、辛うじて石の配置部分のみが残 っている状態です。この史跡については、近々書物を出版したく思っております。

木戸第1礎石建物。昭和初期頃。東南東より。

同左。2003年2月26日。これでも消滅しているよりはいいが・・・

木戸第3礎石建物。昭和3年3月18日。南南西より。

同左。北西より。一部に建物が建ち、遺存しない。

木戸第4礎石建物。昭和3年3月18日。北西より。

同左。北より。残ってはいるが、景観とは呼べない。

山田寺塔礎石(無染寺所在)。昭和3年3月18日。

同左。柵は無い方がよい。景観を損ねるだけでは。
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