主催者掲示板

各務原市で講演しました。(2015.1.12)
タイトル『護命僧正伝を紐解く ― 護命と美濃山田寺址 ― 
このテーマでは30〜40人くらいかと思っていたら、何と150人も集まって頂き、感謝します。
現存する『続日本後紀』には多数の誤写が含まれていること、「古京山田寺」は例のない表現であること、飛鳥の山田寺(やまだでら)と理解するには矛盾のあること、・・・・・。
詳細は省きますが、結論として
1.山田寺址と呼ばれる寺址の当時の名称は、「山田寺」であった。
2.山田寺は秦氏の氏寺であった。
3.護命が帰ったのは、美濃各務郡の秦氏の氏寺である山田寺である。
以上の内容は、2004年に『美濃百踏記』第3巻で既に仮説として提示したことですが、2005年から発掘が始まり、「秦」と書かれた瓦が見つかったことから証明されたことを付け加えました。
「岐阜市長良龍門寺古墳備忘録 ― 小川弘一の業績とその父子の記 ―」 『土筆』第11号 を執筆しました。(2014.10)
 弘一の撮影した未公表写真と共に、発掘参加者の一人として、私の現場所見を書きました。また、その後の三角縁神獣鏡・石釧の盗難事件について、事実を公表しました。
お求めは下記へお願いします。
¥1600 土筆舎 郵便振替 0-0160-6-702140 Tel.0436-21-5802
土岐市美濃陶磁歴史館で「元屋敷と織部の時代」展を開催しています(2014.9)
 小川栄一採集の25点も戦前収集資料として展示されています。収集品を評価して頂けることは、大変有難いことです。早速見学してきました。最新の発掘成果と過去の資料を網羅して、大変よくできた展覧会です。元屋敷窯とその周辺の実態を初めて知りました。是非とも見学してきてください。会期は11月30日までです。
各務原市歴史民俗資料館のたよりに、柳田国男の手紙が掲載されました(2012.3)
 小川栄一が、おがせ池の龍女伝説を柳田国男に送ったことに対して、送り返されてきた礼状を掲載して頂きました。
各務原市歴史民俗資料館 「柳田国男とおがせ池の龍王伝説」 資料館だより 第30号

栄一の『天愚日誌』によると、送ったのが大正3(1914)年5月1日、柳田手紙の消印が5月3日、到着したのが5月4日です。大正期の郵便配達事情の良さも驚きですが、柳田の返信の速さにも驚きです。見習いたいものです。
 なお、栄一自身は大正4年に「苧瀘池龍女物語」という原稿を『郷土研究』に発表しており、岐阜ではこれを機に知られるようになったようです。
笠松町で講演を行ないました(2012.3.3)
 木曽川学研究協議会から「美濃の古代寺院」という講演依頼がありましたが、笠松で行なうと聞いたため、笠松の古代寺院にテーマを代えさせて頂き、半年がかりで調査研究し、その成果を発表しました。
田代廃寺・東流廃寺などと呼ばれている古代寺院は、「笠松廃寺」と呼んだ方が適切で、葉栗郡を代表する格式の高い寺院である、などと話しました。その内容は下記に掲載されています。

「塔心礎と瓦の語る笠松の古代」 『木曽川学研究』 第9号
千葉県の市立市川考古博物館から栄一の貝塚資料が刊行されました(2010.3)
 栄一は庭田貝塚・羽沢貝塚の理解のために、関東の貝塚を踏査していました。その記録が関東でも高い評価を得たため、栄一の調書と収集資料を数年をかけて整理して頂きました。本書はその成果をまとめたものです。

領塚正浩・松本信治・小川貴司共著「小川栄一が記録した戦前の千葉・東京の貝塚」『市立市川考古博物館報』第37号
各務原市山田寺址の報告書が刊行されました(2010.3)
 2010年3月、山田寺址の報告書が各務原市より刊行されました。私も考察編を書かせて頂きました。
 『山田寺跡』 西村勝広編 各務原市埋蔵文化財調査センター
『大野町の絵図』が大野町より刊行されました
 小川コレクションのうち、揖斐郡白山の写真を提供しました。
『大野町遺跡詳細分布調査報告書資料(考古)編』が大野町より刊行されました(2009.3)
 栄一の資料・拓本、それらの私の実測図など多数が掲載されました。担当者の竹谷勝也氏の熱意がよく表れています。
中山道みたけ館で願興寺単弁蓮華文の調査をしてきました
 2008年5月1日、願興寺の単弁蓮華文の調査に行ってきました。輻線文縁単弁蓮華文は近江の系統の鐙瓦ですが、美濃では可児郡願興寺が 採用しています。各務郡山田寺でも少量が出土することから、その意義を確認するため、各務原市教育委員会の西村氏と共に、山田寺の瓦を持 参して比較して来ました。その結果、願興寺には3型式あり、2型式は1型式を改笵した可能性、同様に山田寺単弁鐙瓦は3型式を改笵した可能 性が想定されました。しかし、全体の配置、木目などは一致するものの、改笵とすれば全面的に彫り直されたと思われ、決定的な証拠は得られま せんでした。ただ、3型式までに相当の時間差が窺われ、その最も新しいタイプが山田寺単弁蓮華文鐙瓦であることは確実でしょう。
各務原市山田寺で第三次範囲確認調査が行なわれる
 2007年8月から11月に掛けて、各務原市による山田寺址の範囲確認調査が行なわれました。本年は東側を中心に調査し、予想通り廃棄土坑 が検出されました。伽藍の決め手となる位置には無染寺本堂と庭・墓があるため、残念ながら調査できませんでした。建て替え時に、各務原市の 将来の担当者に委ねたく思います。
各務原市で講演を行なう
 2006年11月22日、各務原市中央図書館で「かかみ野古代史紀行」の一つとして講演会「瓦の語る美濃国と各務郡」を開催し ました。美濃の初 期寺院として不破郡宮代廃寺・宮處寺址、厚見郡中林寺、可児郡願興寺を挙げ、その後、は川原寺式鐙瓦 が中濃西部に多く取り入れられるこ と、川原寺式は中濃西部に限られること、美濃の川原寺式は大和の製品をモデルにして笵 を作ったこと、蘇原地区は寺院4箇所、神社址1箇所、 瓦建築遺構が他に数個所も集中することなどを挙げ、壬申の乱後に蘇 原に都市計画が実行されたことを述べました。受講生の方たちは実に熱心 で、感謝申し上げます。(06.12.5)
各務原市山田寺で第二次範囲確認調査が行なわれる
 2006年8月から12月に掛けて、各務原市による山田寺址の範囲確認調査が行なわれました。本年は伽藍の中心辺りの調査 でした。塔跡の基 檀版築構造や、西側回廊と思われる遺構も確認されました。今年も調査指導に呼んで頂き、様々な可能性 の検討や、来年の調査の打ち合わせ をしました。各務原市の諸氏に深く感謝申し上げます。(06.12.5)  
名古屋市博物館で展示
 2005年10月1日から11月6日まで、特別展「古墳はなぜつくられたのか−古代濃尾の王と民衆−」が開催されました。
当コレクションからは、栄一の調書の『可児郡古墳調書』・『美濃国前方後円墳』・『矢道長塚山古墳発掘調査図譜』など19冊、 そして瑞龍寺山山 頂古墳出土伽耶直口壺1点を出品しました。担当の瀬川さんの熱意の現われた展覧会でした。(05.11.25)  
山田寺で範囲確認調査が始まる
 2005年5月から8月に掛けて、各務原市による山田寺址の範囲確認調査が始まりました。3年計画の調査で、本年は推定地 の北側を中心に調 査されました。その結果、講堂部分の北限と思われる溝が確認され、それが正しければ、私が『古代地方都 市の成立』の中で推定した伽藍配置 はほぼ正しいことになります。今後の調査に期待しております。なお、この調査では私も調 査指導を各務原市より依頼されており、様々の便宜を 計って頂きました。各務原市の諸氏に深く感謝申し上げます。(05.11.25)  
橿原考古学研究所附属博物館で展示
 2004年4月17日から6月6日まで、特別展「天武・持統朝その時代と人々」が開催されています。その中で当コレクションのう ち厚見中林寺瑞出 土鐙瓦zr55、文字瓦「厚見寺瓦」zr19、柄山出土宇瓦kr160の3点を出品しています。
・zr55は川原寺式鐙瓦では美濃最古で、かつ最も優れた製品で、全容の分かる唯一の資料です。
・大正14年に柄山窯址で文字瓦「厚見中林寺瓦」が発見され、それ以来、その供給先が問題となっていました。栄一は供給先 を瑞龍寺址と推測 し、それから再三瑞龍寺を訪れ、文字瓦を探し続けました。そして昭和21年4月8日、ついに発見したのがこ のzr19の個体です。それから「瑞龍寺 址」は「中林寺」あるいは略して「厚見寺」と呼ばれるようになりました。zr19は瑞龍寺址 の中でも記念すべき資料です。
・kr160は四重弧文宇瓦で、鐙瓦zr55のセットと推測されています。
 あまり展示されることのない資料ですので、できたらこの折りに御覧下さい。(04.4.28)
貸出許可や掲載許可は大変
 多くの資料を保管していますと、書物への掲載依頼や展覧会への出品依頼が年に数度は受けます。
 借用でも掲載でも、許可する場合には依頼先が許可できる機関かどうか、依頼の意図がこちらでも承知できるものかどうか、依頼品が確かにこ ちらで許可できるものかどうか、借用の場合は他との重複依頼がないかどうか、書類に落ちはないかどうか、等々、それなりに確認した上で作成 しなければなりません。それを最初の交渉段階から数回の電話連絡を受けての上となると、1件済ませるに要した時間は1時間やそこらで済む話 ではありません。私は資料管理を仕事としている訳ではなく、私的に管理しているに過ぎません。極力協力するように心掛けていますが、中には 心得のない機関もあり、憤慨することもあります。
 たとえば、書類ですが、出版社から届く書類は必要事項を全て記載してあり、返信封筒も宛先が書かれています。こちらでは内容を確認の上、 ただ署名・捺印するだけで済みます。こちらに負担を掛けないようにという心遣いが窺われ、こちらもそれほどの負担を感じません。行政機関でも 大抵はそういう心遣いを感じています。しかし、今年受けたある機関では、最初からぎくしゃくしていましたが、届いた書類を見て驚きました。借用 許可書と掲載許可書が別になっており、どちらも何も書いてない。返信切手は入っていましたが封筒もない。これらの書類のそれぞれに、品名・出 土地・個数、私の住所・氏名・電話、許可条件など、必要事項を一々書かなければならない。堪りかねてこちらで別の書類を作って送りました。
 その後は連絡がなく、展覧会が始まっている筈なので近くを通った時に寄ってみようかとも思いましたが、招待もされていないのに押し掛けるの もいかがなものかと思い、行きませんでした。会期半ばにしてようやく招待券が届きましたが、何故か作った筈の図録は来ない。
 皆さんはどう思われますか。こういう機関にはもう貸したくないと思う私が悪いのか、この館が悪いのか。この件はともかくも、そのうち大正期から 百年分の依頼書・許可書を公表するのもいいかもしれません。書類の作り方など、それぞれの機関の特徴や事情が表われているように感じます。 (03.1107)
追記 03.11.08、図録もようやく届きました。しかし、もし10日前に立ち寄っていたら入場券を買って図録も買ってましたね。愛知県某展覧会は2ヶ 月も前に招待券を貰っていたのとは大違い。担当者の意識の違いと言われても仕方がないでしょう。
渡来人の検証
 10月25日・26日の二日、近江の滋賀県立大学において日本考古学協会が開かれました。私は渡来人のシンポジウムに出ておりましたが、渡 来人の考古学的な発表を聞いていて、美濃では一体どれほどのことが言えるのか、聞けば聞くほど愕然とするばかりでした。滋賀県で開催の学 会ということもあって、発表は畿内地方が中心でしたが、各県から多数の渡来遺物出土遺跡、オンドル遺構、大型建物遺構の集成が行われ、発 表されました。それに比べて、美濃にも多数の渡来人が来ている筈なのに、とても発表された各県のようなことは言えません。置いて行かれてい るという実感です。大陸製の物が出土しても、それだけで渡来人の証明にはなりません。渡来人の証明には遺物と遺構と儀礼の検証を要すると いう見解が示されましたが、こればっかりは遺跡地を再三踏査する当家の研究法では何ともなりません。県市町村の密なる発掘調査、そして雑片 と雖も詳細に検討する整理姿勢を祈るばかりです。(03.10.31)
栄一の調査日誌
 栄一は日々の記録を手帳に記した時期もありますが、紙の端切れなどに記したことの方が多かったようです。それらを『三乃国虫日記抄』と題し てまとめています。記載期間は明治38年から昭和37年12月31日にまで、亡くなる1ヶ月前までです。最後の1ヶ月はまるでお別れを言いに行く かのように知人を順に訪問し、一巡した後、玄関で倒れて翌日亡くなりました。ですから、調査記としてはほぼ揃っていると考えてよいと思われま す。これを見ますと、いつどこへ調査に出掛けたのか、日によってはその時の事情などを記したものもあり、また栄一の調査の方法なども具体的に 知ることもできます。これを調書類と照合すれば、調書の内容を更に深く理解することができそうです。因みに『厚見中林寺・唐窯址の研究』の中 で調査の経過を書きましたが、一層深く分かりました。また、外に知らなかったことが多々あり、いずれ補完していくつもりです。なお、これ以外に 『天愚日誌」というものがあり、これは一段と詳しいのですが、大正6年までの記録です。まずは全体像を掴むために、現在は『日記抄』の整理を優 先しています。なお、栄一は化石の調査もしていましたが、昭和33年から始めたことを初めて知りました(77−81才直前まで)。日誌を見ます と、最後の3年、とりわけ最後の1年は筆が乱れ、読むことは困難です。こんな状態で片道数時間もかけて何個もの化石を持ち帰って来たかと思う と、肉親であるが故に却って言葉になりません。祖母は一所懸命制止していましたが。(03.8.31)
「栄一学」の必要性
 栄一に残した記録は調書類だけでも数万ページに及んでおり、更に日誌や手帳、メモなど多数に及んでいます。1日千ページ読んだとしても100 日を越す量です。これでは誰かが整理しない限り利用できません。また、栄一自身も年を追うごとに書き方や用語が変わって来ており、中には内 容の異なるものもあります。これには学会や社会の動向や、認識の変化、その他の事情に因っています。それを栄一資料を利用する研究者が 一々検討するのではたまったものではありません。既に栄一自身が研究の対象になっているのです。民俗学では「柳田学」という言葉があります が、岐阜では栄一の記録と栄一自身を研究する「栄一学」が必要と考えます。(02.11.29)
資料・記録の公開
 小川家では資料でも記録でも自由に貸して来ましたが、その結果として貸したものが戻って来ない、あるいは無断使用、著作権侵害が100年に わたって絶えない事実があります。
 同じ轍を踏まないように、三代目は著作権を明確にすることを求めています。貸出は制限し、その代わりに誰でも使えるように出版物として公開 することを目指しています。そのためには多額の費用と労力がかかりますが、それを誰が負担すべきでしょうか。皆さんも是非考えてみて頂きたく 願っております。(02.9.21)
メールは全国から頂いています!
 このホームページを公開してほぼ1年が経ちました。北は青森から南は福岡まで励ましのメールや手紙を頂き、深く感謝しております。しかし、 岐阜県内からは何と問い合せが1件あっただけ(大野町K氏)。コレクションの保存もホームページも県民への貢献を視野に入れていただけに、正 直言って複雑な心境です。(02.9.21)
各務原のMさんからメールを戴きました。岐阜から初めての励ましのメールで感謝します。(02.11.23)
関口藤兵衛氏孫 武司氏よりメールを戴き、藤兵衛氏・安藤守元氏に関する貴重な御教示を頂きました。感謝します。(03.7.25)
岐阜大学工学部 若井和憲先生からメールを戴きました。ご自身のHPにも紹介頂き、感謝。します(03.8.18)
旧石器遺構の捏造
 私は古墳時代から古代までを中心に研究しておりますが、この2年ほど、一般の方から受ける質問の大半は、何と旧石器の捏造に関する内容 です。このホームページのメールでさえ捏造に関するものを頂いており、捏造事件を起こした藤村新一の功罪の深さを染み染みと感じさせられま す。
 しかし、旧石器を調査した経験で言えば、このような捏造を許した原因は、旧石器研究の調査手法にも問題があると私は考えます。
 私達が古代の遺跡を発掘する時、出土した遺物を決して動かさないように注意します。不意に動かしてしまいますと「原位置を失った」「資料価 値が減った」とまで指摘されたものです。皆さんも遺物の出土状態写真を見直してみて下さい。縄文時代以降の調査であれば、遺物は土に貼り付 いた状態で出土しています。ところが、捏造された'遺構'の写真を見ると、明らかに置いた状態であり、土にも混じりがあり、原位置を失っていま す。
 私が初めて旧石器を調査した時、旧石器の研究者らは遺物が出土すると十分な観察もしないで直に取り上げてしまうことに驚きました。遺構の 確認がほとんどできない時代だけに、なおさら原位置と遺構の検出が問題となる筈ですが、問題としていないのです。
 古代の遺物であっても、千年以上も地中に閉ざされていれば、地圧を受けて土に密着しています。1万年以上も閉ざされた遺物は、一層土が固 く締まっており、土を掘るというよりも削るといった方がふさわしい感触となります。この状態は地域の環境によって異なるかもしれませんが、現代 に埋めたものかどうか、掘った者に分からない筈はないのです。
 考古学とは、人間の残した跡と物、つまり遺構と遺物を研究する学問です。とすれば、出土した遺物の原位置を無碍に動かす手法は、本来の考 古学の手法ではないと考えます。
 また、新聞では最古級とか最大とか新発見と言ってもてはやされますが、考古学は地道な学問です。決して発見主義に陥ってはいけません。我 が小川家では三代百年にも亘って地道に山野を踏査し、遺跡を観察し続けて来ましたが、自慢ではありませんが、大して日の目を見たことはあり ません。名声を望む人は、学問などやるべきではないのです。(02.9.21)
古墳・遺跡の名称
 栄一に限らず、第一世代は遺跡名を勝手に付けていません。報告する時は字名で呼んでいます。しかし、それがタイトルであるため、いつの日 か固有名詞と理解されるようになり、混乱の第一歩が始まっています。
 現在では、古墳や遺跡の名称は地元の呼称がある場合はそれを優先し、ない場合は字名で付ける、という原則があります。しかし、地元呼称で も字名でもない名称がなぜか最近目立つように感じます。もしかして、自分が命名したという快感?でも味わっているのかという気もしますが、担 当者は永い眼で考えて下さい。いずれ必ず見直される時が来ます。その時、誰が規則違反を行なって混乱させたかと、名声どころか汚名を残すこ とになるでしょう。