瑞龍寺山古墳群

 金華山というと、岐阜市街地に住む者にとっては非常に馴染みの深い山で、遠くから帰省する時は、この山が見えた時、「帰って来た」という実 感が湧きます。登って見ますと、濃尾平野を一望できる景勝地です。そのために、早くから重要な遺跡が造られています。しかし、傾斜が急であるために土が流れ落ちており、戦国時代には城として改修されたために、早くから遺跡が破壊されています。その上、学術調査がほとんど行なわれていないので、その実態は分かっていません。

瑞龍寺山の古墳分布図(栄一調書)
瑞龍寺山の古墳群
 瑞龍寺山は金華山の南側に連なる山ですが、地元では 水道山という名前の方が知られています。その名は昭和 3年に岐阜市の水道タンクが作られたことに由来します。 この時、そして翌4年にも古墳が露呈したために、栄一が 記録を取っています。
 昭和33年には頂上より一段低い西側部分に遊園地とプ ラネタリウムが造られ、この折に多数の古墳が壊されまし た(左図、青矢印の位置)。
 山頂だけでなく、南に向かう3本の尾根にも古墳群が存 在します。最も西側の尾根は5基の古墳が知られていま すが、昭和3年から4年にかけて水道工事などで壊されています。

 また、山頂には弥生時代の墳丘墓があります(赤矢印 の位置)。山頂の各所から弥生土器が出土していますので、弥生時代の墳墓群が存在すると思われます。これに ついては次ページで触れます。

 瑞龍寺山・金華山には他にも多数の古墳や墳丘墓など が存在すると思われますが、岐阜城として造成されたこと などから極めて分かりにくくなっています。栄一は天守閣 で須恵器を採集していることから、岐阜城天守閣は古墳 の上に造られたと考えていました。今後、僅かな工事で あっても、慎重に対応することが唯一の解明手段と考え ます。

瑞龍寺山北方より望む(赤矢印:墳丘墓。青矢印:遊園地所在古墳群)
旧遊園地(山頂西側)の古墳

昭和33年4月19日 遊園地工事現場(古墳所在地)

同上出土遺物

 遊園地域の古墳分布図(栄一調書)

瑞龍寺山プラネタリウム・遊園地・リフト
(梅林自治会連合会編2000年『梅香るふるさと梅林』より転載)
昭和34年に開園し、57年に閉鎖されました。現在は展望台となっており、車で上ることができます。
昭和3年水道工事の折に出土した古墳

水道タンクと周辺の古墳(栄一調書)

 水道工事で出土した石室(栄一調書)
柳ヶ瀬にも古墳群?!
 弘一は年寄りとの話が上手く、様々の聞き取りをしていました。その一つに東柳ヶ瀬における古墳群の存在があります。瑞龍寺山の古墳群は麓 にも達しており、西側では粕森神社の西から南にかけて存在していたようです。
もちろん早くから町並みに変わってしまった地域ですので、古墳の形は全く残っていません。しかし、宅地を掘った時に、石室の基底部と思われる 石の配列がいくつか確認されています。ただ、残念なことに、弘一は聞き取った内容を記録していません。 
伽耶伝来の直口壺
 明治42年9月8日、瑞龍寺山から出土したと
伝わっていますが、発見者から直接入手した
資料でないため、出土位置などの正確な情報
が分かりません。
 器高は19.6cm、胴径は15.0cmで、重量は
1142gです。口頸部は三段に分けて、櫛描波
状文を施しています。  この直口壺は朝鮮半
島の伽耶で作られたもので、日本国内全体で
見ても数例しか知られていません。まして完形
品となると、極めて珍しいものと言えます。この
ような資料が出土する古墳となると、相当の有
力者が葬られた古墳と言えます。それだけに、
特定できないことが非常に残念です。それで
も、瑞龍寺山古墳群の重要性だけは十分に知
ることができます。
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