和銅銭入り須恵器
 左下の新聞は、平成元年12月23日の読売新聞の記事です。平城京の右京三条三坊の一角から和同開珎5枚の入
った坏が出土したという記事です。これを読んで驚きました。なぜなら、これと余りにもよく似た例が美濃でも確認されて
いるからです。
 写真右は大正7年4月に出土したもので、この写真は鳥居龍蔵博士が来られた時に撮影され、後で贈って下さった
ものです。
 栄一の記録によりますと、美濃国分寺総門の西に当たる地を耕地整理中に、蓋をした状態の坏2個が出土したそう
です。1点は粉々に壊れましたが、この個体は蓋を含めておおよそ残存しました。銭は全て和同開珎で、1点を中心に
置き、その四方に4枚を配置しており、銭の錆が坏に附着しているため、その位置が確認できるとしています。そして銭
は全て裏を上にしていたとしています(写真は表向きですが)。
 もう1点の壊れた坏も同様に5文が入っていたそうです。坏2個の位置関係が問題になりますが、残念ながら記され
ていません。恐らく栄一自身も確認がとれていなかったと思われます。
 この資料の性格ですが、胎盤を入れた「胞壺」と理解するのが一般的です。平成13年に奈良大学の水野正好先生
が呪いについて講演され、その記録がインターネットでも流れています。それによりますと、鎌倉時代の文献に次のよう
な内容が記されているそうです。一般の公家の場合は出産後、新生児を真水で9回洗い、清酒で1回洗う。真水は陰陽
師が吉方角を占って汲みに行く。そして後産の処理のまじないとして、小壷の中に、女児の場合は針とハサミを、男児
の場合は骨、墨、刀(出世を祈願する意)を入れて柱の下に埋める、ということです。
 それにしても国分寺の門の辺りでどういう人物の屋敷があったのか、今後の現地での検証が重要です。

読売新聞 '89.12.23

美濃国分寺門付近出土
鳥居龍蔵博士撮影
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