文化財盗難事件とその余波


 昭和40年代前半、京都から滋賀・岐阜・三重・愛知にかけて、5府県にまたがる文化財連続盗難事件が勃発した。昭和44年に三重県立博物館に押し入ったところを捕え、その自供から数百点の窃盗事件が明るみに出た。押し入った対象は、博物館・大学・寺社・個人宅など、文化財を有するあらゆる所に押し入っていた。窃盗品目は鏡・石製品・須恵器・埴輪などの古墳出土品、古瓦、陶磁器から仏像まで含まれており、正に文化財専門窃盗事件の走りだった。犯人は捕まったが、大半が売却されていたため、被害者は買い戻す以外に取り戻す方法がないとされた。
 被害者がどのように対応されたか、個々に承知していない。当家では美濃刻印須恵器・鐙瓦・鴟尾など数点が被害にあったが、転売されたもの、行方不明のもの、犯人が盗難先を誤って申告したために他者に戻されたものなどがあり、一つも戻らなかった。
 岐阜市では、岐阜市立図書館に展示していた龍門寺古墳の三角縁神獣鏡と石釧が盗まれ、京都のさる個人に転売されていたが、岐阜市は所有権を放棄した。


中日新聞 1969.5.28



中日新聞 1969.5.29



中日新聞 1969.5.30



中日新聞 1969.6.3



朝日新聞 1969.6.21



岐阜市長良龍門寺古墳出土遺物の盗難

岐阜市長良龍門寺古墳出土 三角縁神獣鏡・石釧 盗難事件とその後
岐阜市指定文化財が盗難
 長良龍門寺古墳の遺物は、岐阜市立図書館にガラスケースを置いて常設展示された。
 昭和43年3月24日、小川弘一が図書館へ行ってみると、三角縁神獣鏡と石釧がない。職員に聞いても誰も知らず、2〜3日前に玄関のガラスが割れていたという。警察を呼んだが、犯人の証拠は掴めなかった。翌日、教育委員会としては盗難届を出さない方針というので、小川は必ず出すように要望した。それ以来、小川は八方に手を尽くして探し回り、文化財盗難報道がある度に、担当警察へ確認した。
犯人逮捕と家宅捜索
 昭和44年5月23日、三重県立博物館で盗賊が捕まった。京都から愛知まで5県にまたがる文化財専門盗賊で、知人宅などから大量の盗品が見つかり、押収された。小川は直ちに三重県警に連絡したが、岐阜県警を通すように指示され、岐阜県警に連絡すると盗難届が出ていない、と厳しく叱責された。教育長に頼んでしぶしぶ提出して貰い、三重県警を訪れて、大量の盗品の中から一日がかりで鏡を探し出した。しかし石釧がない。この指摘を受けて、再び家宅捜索し、押収した。
所有権放棄、個人回収
 ついに見つけ出したものの、所有権が京都のさる個人に移っているため、取り戻すには買い戻す以外に方法がない、という。しかし、教育委員会は買い戻さないこと(所有権放棄)を決めた。小川は再度訴えたが、これ以上、関わるな、余計なことをするなと厳しく釘を刺された。
 小川は再び行方不明になることを恐れ、個人で買い戻すことにした。しかし、所有者が金額だけでは納得せず、須恵器壺の優品を要求したため、小川コレクションで最優品の野古墳出土須恵器壺を進呈して、ようやく了承してもらった。小川は鏡・釧を図書館の展示室に戻すつもりでいたが、一連の行動を厳しく非難されたこと、見かねた同僚らからも進言されたことから、当家で仮保管することとなった。
永久放棄か?それとも・・・
 その後、市には謝罪と買取を求めてきたが、拒否され、逆に断罪されるかのような話合いの後に倒れ、その後も2度倒れ、3度目に亡くなった。この件がなければ早死にすることはなかった、という思いが家族にはある。
 その後も問題解消を訴えてきたが、買い取るには議会を通さねばならないこと、教育委員会の不手際が明るみに出ることがネックになり、現在も解決していない。
 しかし、既に半世紀が経過し、個人の限界を感じている上、市側が無視する対応に変わってきた。できるだけ穏便に進めてきたが、無視されては交渉にならない。そこで平成26年10月、専門誌に経緯を掲載し、事実を明らかにした。それから1年経過しても対応しないため、事実を公開して市民の意見を求めることにした。

 岐阜市民および文化財に関心のある総ての皆さんに問いかけたい。
1.岐阜市が盗難の事実を隠ぺいした措置は正しかったのか?
2.岐阜市が所有権を放棄した措置は正しかったのか?
3.岐阜市が現在も解決を拒否する姿勢は正しいのか?
4.小川の行為は批判されるべきことか?

 岐阜市が責任を認めず対応しない場合は、しかるべき所へ納めようと思っている。そうすれば、盗難・隠ぺい・所有権放棄の事実が永久に残ってしまうであろう。もう猶予はない。
ご意見をお寄せ下さい。


盗難にあった長良龍門寺古墳出土 三角縁神獣鏡と石釧 (岐阜市指定文化財)