小川弘一撮影写真に見る長良龍門寺古墳の発掘経過


  長良真福寺一帯は百々ヶ峯を背にする山裾部で,竹薮が広く生い茂っていた。昭和30年代に至って開発が急速に進み,龍門寺古墳に迫っていた。この時,岐阜県考古学の祖の一人,小川栄一の子弘一が岐阜市社会教育課文化財係にいた。破壊の危機に気づいた岐阜大学中野効四郎教授は,教育活動を含めて,発掘を行いたいと考え,行政的・財政的援助を求めて昭和35年春に松尾吾策市長と担当の小川に話を持ちかけた。市長は中野には政治家らしい回答をしたが,小川には厳しい言葉だった。小川は折れずに粘って年末に漸く認められたが,38万円の要求が8万円に減額された。そして夏休み予定の計画は翌年春休みに延びた。発掘は中野を団長として,指導を名古屋大学楢崎彰一助教授に依頼し,吉岡勲・船戸政一が学校関係を取り纏め,発掘体制を整えた岐阜市初の発掘調査となった。

長良一帯景観 百々ヶ峯中腹より南西を望む。矢印が龍門寺古墳。(昭和36年4月7日、3枚を合成)
調査開始

発掘前東景観。右側が前方部。左段が後円部中段。(3/26)

学校から希望者を募り、素人ばかり100人近くが集まった。5班に分かれて発掘開始。東
トレンチと墳頂の景観。道具が足りなくて立っている人が多い。私は大野さんの車に乗っ
て、道具集めに翻弄していた。(3/27)

休憩所としてテント2張を張り、石を組んで羽釜を乗せ、薪を燃してお湯を沸かした。石は周辺から集めたが、崩された古墳の葺石と思われる。(3/27)

発掘をしながら測量もした。楢崎先生は飛び回りながら測量を進めていた。平板は船戸さ
ん。(3/27)

墳丘北側テラスの調査。道具不足で立っている人も多いが、合間に見学者も交じっている。(3/28)

墳頂発掘景観。竹根に阻まれているため、素人が唐鍬でどんどん掘り進めている。この4時間後にここから直刀が出土した。(3/28)
主体部の調査

主体部東から短甲が出土し、一気に期待が高まった。(3/31)

教育普及活動を重視していたので、見学者には随時手厚く説明をした。写真は中野効四郎先生。ただ、遺跡見学のマナーができていない時代のため、遺物が出始めた後も、主体部の中まで見学者が勝手に入ってきた。弘一が板を買ってきて写真のように張り回し、漸く入らなくなった。(3/31)

主体部は竹べら・竹串などで慎重に調査。さすがに素人はご遠慮願ったが、最初は知らないうちに入り込んでいる参加者もいた。(4/1)

主体部を調査する弘一。(楢崎先生撮影)(4/1)

玉類はかなり高い位置からも続々と出土した。(4/1)

終日雨のため、ビニールを張って中で調査し、完堀した。二重写しだが、状況がよく分かる。(4/2)

撮影前に乾いた部分に霧吹きをする楢崎先生。この頃の霧吹きは金属製で、口につけて吹いて霧を飛ばす。やり続けると酸欠になって頭が痛くなる。(4/3)

楢崎先生に質問すると、小学生の私にでさえ丁寧な言葉で説明してくださり、熱意には常に感服した。よい写真を撮るためにはこんな所もなんのその。主体部撮影風景。(4/3)

主体部は西へ僅かに傾斜しているが、そのまま墳丘の外へ排水する構造になっていたように思う。この写真はその構造がよく分かる。(4/3)

主体部、逆方向から。右端の主体部外に耳環がある。実際はこれより高い位置で、鉄鏃の上辺りから出土した。

耳環は3/31に鉄鏃より僅かに西寄り、20cmほど高い位置からCを上向きにして出土した。この周辺では最初に見つかった遺物である。土柱にして残されていたが、さる女性に崩されて一旦取り上げられ、撮影時にこの位置に置かれた。出土位置から、明らかに主体部遺物と一括性はない。休憩時間に楢崎先生に質問して、耳環という名称と使い方、年代などを教えて頂いた。この時点で5世紀前半の古墳という認識になったが、後に三角縁神獣鏡などが出土して、4世紀後半に訂正された。なお、耳環は報告書に掲載されておらず、岐阜市も保管していないという。(4/3)

三角縁神獣鏡周辺の遺物出土状態。この状態に至るまでに、多数の玉類を取り上げている。(4/3)

三角縁神獣鏡周辺の遺物出土状態。(4/3)

三角縁神獣鏡周辺の遺物出土状態。(4/3)

短甲完堀状態。(4/3)

短甲撮影風景。(4/3)

鏡完堀撮影風景。右端断面に注意してほしい。確認面、ほぼ短甲上面まで竹根がぎっしりと入り込んでいる。主体部でさえ竹根で傷んでいたことが知られる。(4/3)

松尾吾策岐阜市長は度々見学に来られた。これは玉類を取り上げているところ。タッパのない時代、薬の空き箱などに綿を入れて取り上げた。(4/3)
葺石の調査

葺石南西部調査景観。中段テラスに並んで発掘しているが、一人だけ斜面に上がって届かない部分を掘っている。傾斜と高さが分かりやすい写真である。(3/28)

葺石南側 西から。中段テラスに大きめの石を敷き並べて、その上に小振りの石を積んでいる。葺石基底部の直径はほぼ17mで、図上復元しても狂いは少ない。(4/7)

葺石北東部。この辺りの葺石は崩れが目立つが、基底部は残っていた。(4/7)

葺石北側 西から。この辺りは岩盤を削ってテラスを造り出し、その上に石を並べてから積んでいる。(4/7)

墳丘の最終写真。墳丘下から下段上段を見上げた状態。弘一撮影だが、現存しないので概報から転載した。(4/17)

主体部完掘までの主力メンバー(4/3)。主体部終了後、主体となったのは3人だけ。弘一(前列右から二人目)・楢崎(2列目左端)・八賀(同右端)、休日に時々参加したのが吉岡(2列目右から2人目)。
棺床下部構造の調査
4/5は雨天中止で、4/6から棺床下部構造の調査が始まった。墳丘・主体部の調査には100人近い参加者がいたが、春休みが終わったこともあって、ここからは小川・楢崎・八賀の僅か3人のうち、手の空くものが参加する形となった。土日は吉岡・船戸が時々参加した。この間、全日参加したのは小川だけだった。小川はひたすら掘り続けたため、写真は遺構の状態写真しかとっていない。楢崎先生が遅れて来られた時に、小川のカメラで調査風景を撮影された。
調査は、東西南北にトレンチを入れ、東西南のトレンチを掘り広げた。敷石が墳頂全面に広がっていること、敷石下部は岩盤であることを確認して4/21に終了した。墳頂北側はトレンチのみとなった。

棺床を断ち割って敷石を出したところ。(4/13)

敷石範囲が想定より広いことに気づき、急遽拡張する弘一。楢崎先生撮影。(4/14)

竹根を断ち切りながら敷石を掘り広げる貴司。朝からこの作業を続け、3時半頃に楢崎先生が来られて撮影された。(4/16)

敷石東側。北西から(4/17)

敷石南西部。 南から(4/17)

敷石西側。西から(4/17) 後で分かったことだが、敷石の明確な部分は岩盤の上に敷いた部分て、沈んでいる部分は盛土の上に敷いた部分に当たる。

敷石東側。 南から(4/17) ここでも敷石の明確な部分は岩盤の上、不明瞭な部分は盛土の上に当たる。

敷石を剥いだ後の岩盤(4/21)
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