『美濃古墳分布調書』

 栄一の古墳の調査は明治42年に始まり、およそ20年かけて美濃を一巡しました。そうして3千余基の古墳を確認し、それらの大きさ・高さを計測 しました。その成果は『美濃古墳分調書』として郡毎にまとめています(写真)。これが岐阜で初めて作られた体系的な古墳調書です。内容の一部 は『岐阜県師範学校郷土研究資料』の中で公表していますが、未公開部分も少なくありません。その後、県史・郡史・市史、遺跡地図などの編集 の際に、これを借用して使用しており、岐阜の古墳研究の礎になったと言えます。
古墳調査の動機
 栄一は、美濃の研究を始めた動機について、次のように記しています。
「明治維新後、古文化資料に対して関心を持たず、古社寺の宝物は散逸し、旧大名外諸家の持って居った古美術品を顧みず外国へ持って行かれ たり、立派な蒔絵物は焼いて金を取ったりしました。古墳其他の史蹟も江戸時代の終りまで千余年も完全に保存されたものか毀たれて失って行く から、私は惜しいことに思ひ、明治四十二年から美濃の史蹟遺物の調査を行ひ記録を作り、遺物の残片でもよいから蒐集保存し置きたいと思って 細々とやって居ります。」(『美濃文化史博物館に就て』の一部。昭和20年代中頃草稿)
紛失情報の復元
 調書の中には貸し出したまま、返却されないものがあります。『山縣郡古墳分布調書』は栄一の生前に紛失したようで、記憶やメモを頼りに再編 していますが、復元し切れなかったようです。現存する海津郡・養老郡・不破郡は他と編集方針が異なっており、別のものが存在した可能性があり ます。
 『美濃国前方後円古墳図譜』は、昭和32年11月17日の県文化財審議会の会場で紛失したため、記録とメモを元に再筆したことが記されています が、これも復元し切れていないでしょう。専門家ばかりの会議で、そう何人もいなかったのに心ないことをするものです。行方の分からない調書の復 元作業は、その後の追加資料とともに、調書の断片などと照合して行なわなければなりません。
調書使用時の留意点
 『美濃古墳分布調書』というタイトルを見ると、これが栄一の調査した全てのような錯覚を持ちます。しかし、栄一の美濃研究60年のうち、最初の 20年分の成果に過ぎません。その後、40年分の成果は公開していないのです。つまり、栄一の調査した古墳を調べるには、調書全体を調べる必 要があるのです。
 栄一の調書を扱う場合、何時書かれたものか順追って理解する必要があります。たとえば、『美濃国ニ存スル前方後円式古墳』という同名の調 書が3冊もあります。1冊は明治末から大正初期、2冊目は大正8年5月に書かれています。そして3冊目は昭和21年6月に書かれた原稿で、これ には追加資料しか書かれていません。私は最初3冊目しか読んでいなかったので、なぜ重要な前方後円墳を除外しているのか理解できませんで した。要は調書を徹底的に整理しなければ、栄一の意図が伝わって来ません。そして、誤認の可能性があります。これは調書全体について言える ことです。
 また、古墳関係の調書は数百冊ありますが、遺物調書は正確な出土地を書いていません。栄一にとって調書は自分の記録ですから、一々完璧 に書く必要はなかったのです。遺跡を扱った調書と併用しない限り、栄一の情報は復元できません。
 つまり、1冊を抜き出して便利に使うことは、誤りの原因になりかねません。
情報源の整理と誤認の修正
 現実に、栄一の調書を広く引用している文献において、誤りとしか思えない記述が見られます。
古墳やその名称を取り違ったり、遺物出土古墳が違っている場合ですが、それが誤用なのか別のものなのか、情報源を整理する必要があります。 これは一件々々個別に検証する必要があり、莫大な時間と労力が掛かります。余りにも無駄に見えますが、それをやらなければ事実の復元がで きません。
未踏査地域
 栄一は美濃の全地域を隅無く調査し尽くした訳ではありません。未踏査部分を認識し、それを踏査して補う義務が私たちにあるのです。そのため には、まず未踏査部分を認識する必要があります。また、踏査部分でも現代式のやり方ではもっと詳しく見ることができます。古墳の分布調査は昔 の話ではなく、今なお責務を負う話なのです。
 たとえば、岐阜市においては二代目の小川弘一が昭和30年代から10余年をかけて再調査しました。栄一の確認した岐阜市の古墳は300基余り ですが、弘一によって540基ほどに増え、その中には長良龍門寺古墳のような重要な古墳も含まれています。ただ、弘一の調査区域は栄一と重複 が多く、未だに誰も踏査していない地点が残っています。これを踏査することが、今後の課題です。
 また、上記の数値に疑わしいものは含めていません。それらの多くは壊れた古墳である可能性が高く、これらの確認も今後の課題です。
 栄一の確認した美濃の古墳は3千基余りですが、この割合で増えれば、実際には6千基を越すでしょう。
今なすべきこと
 栄一の記録した古墳3千余基のうちかなりの数が既に消滅しています。つまり、栄一の調書が唯一の記録である可能性が高いのです。
 今、我々がすべきことは、第一に栄一の調書の情報をできる限り復元し、それを公開することです。第二に誤引用を正すことです。そして第三に 未踏査地域を新機に踏査し、新たな古墳を検出することです。
 これらは他人事ではなく、今、我々がやらなければならないことなのです。
 なお、調書の中に未発表の前方後円墳なども含まれていますので、現存するものは再踏査する必要もあります。
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