美濃の川原寺系瓦

美濃古代の瓦の型式
古代において、瓦を持つ建物は寺院や宮殿、官衙など、重要な施設に限られていました。だから瓦の文様や製作技法などを手掛かりに、その系譜を求めることによって古代史の一端を解明できる可能性があります。とりわけ最初の時期には寺院建築だけでなく、経典・仏像・舎利・僧侶など全てを無から調達しなければならず、独自に行えたとは考えられません。そこで中央との関わり方が問題になってきます。
美濃には数十種類の古代瓦の型式が知られていますが、その一つ一つに型式誕生のドラマが秘められている筈です。
美濃国内の古瓦の例

川原寺系鐙瓦
 美濃は川原寺系の瓦が非常に多いという特徴が言われています。川原寺は奈良にあり、天武天皇との深い関わりが指摘されています。672年に壬申の乱があり、美濃では各務郡の村国男依らが中心となって活躍しました。その活躍の論功行賞として寺院の建築を許したと言われています。この説が登場したのは30年ほど前のことで、「考古学とは何か」と議論の盛んだった当時の世相の中で、考古学の事象を文献史学と共に扱った手法は実に新鮮で、これで決まったかのように思われました。しかし、寺院の発掘がほとんどされていない美濃にあっては、未だに具体的 な証明はされていません。むしろ細かい点を詰めて行くと、川原寺ないし大和の瓦工人との直接的な関わりは、ほとんどないのではないかと思われてきます。川原寺系と言っても美濃の中にいくつかの系統が生じており、まずはそれぞれの系譜を追うことが必要であって、とても直に結論を 出せる状態にありません。
奈良川原寺の川原寺型式

A                  B                 C                  E  

 
 奈良の川原寺では創建時に4種類の鐙瓦が作られました。これらを総じて川原寺型式と呼んでいます。特徴は、花弁が複弁の八弁蓮華文で、周縁は面違鋸歯文、種子は3重で1+5+9の構成、但しE型のみ1+4+9となり、鋸歯文は笵において削られています。
各務郡の川原寺系鐙瓦
 美濃では川原寺の瓦に正に一致するものは1点もありません。文様構成のみを比較するなら、各務郡を中心として中濃地域に分布しています。そして型式構成の一部が異なる川原寺系の瓦はもう少し広い範囲に分布しますが、どの程度のものを川原寺系の中で扱うのか、統一見解がある 訳ではありません。
 瓦は寺ごとに複数の種類の型式を持つ場合があり、それが他の寺と同笵(同じ笵で作った瓦)の場合があります。たとえば、各務郡に所在する 寺院・窯址、あるいは各務郡生産の瓦を供給された寺院で見ますと、次のものが同笵です。
中林寺1型式=柄山1型式    中林寺2型式=平蔵寺       中林寺3型式=柄山2型式
平蔵寺新=山田寺1型式     山田寺3型式=柄山3型式     野口廃寺=加佐美廃寺=山田寺2型式
しかし、これでは訳が分からないので、各務郡の関わる瓦をまとめて笵番号を付けると、複弁蓮華文だけで7型式となります。
各務複弁1型式:柄山窯で生産。厚見郡中林寺に供給。美濃では最も川原寺の川原寺型式に近い。
各務複弁2型式:生産窯不明。大半が平蔵寺に供給。後に中林寺・山田寺・東島に供給。種子構成が1+5+8の点が川原寺と異なる。
各務複弁3型式:柄山窯で生産。中林寺に供給。
各務複弁4型式:生産窯不明。最初は主に加佐美廃寺に、僅かだが山田寺にも供給。後に主に野口廃寺に供給。
各務複弁5型式:柄山窯と山田寺でそれぞれ1点のみ確認。種子構成が1+4+8+16となり、花弁の反りが潰れた状態となる。
各務複弁6型式:柄山窯で生産。供給先不明。中林寺の可能性あり。
各務複弁7型式:柄山窯で生産。供給先不明。
 土器型式などを研究する時、文様は基準から次第に崩れて行くという特徴があります。土器の耐用年数は僅か数年ですので、古い型式が10   年、20年と残ることは考えられません。しかし、瓦は屋根の上に残り続けますので、唐招提寺などでは未だに1000年以上も前の瓦が乗っていま   す。瓦当面の笵も大切に扱うものですので、これが残っていれば古い型式の瓦を新たに作ることが可能です。また、笵を彫る人物の技術量にも大   きく左右され、下手な笵は新しいという印象を与えがちです。したがって瓦は文様構成より、その時代の技術、作りの方が重要と言えるでしょう。
 各務郡関連の型式を見ると、川原寺と同じ構成をのものは1・3・4型式の3種類です。2型式は種子構成が異なっていますが、実物を見ると花   弁の表現などに於いて、3型式や4型式より川原寺に近い要素をもっており、より丁寧に作られています。作りや焼成において、これが4型式より   新しいとは考えられません。
各務山田寺式
 山田寺からは多種類の瓦が出土していますが、その中で最も多いのが上図右下のような素弁を思わせる型式です。複弁八弁蓮華文ですが、  子 葉が花弁内全体を占めており、間弁は花弁と合体して外形線のみとなっています。しかし、この線のみを追って見ると、線描きの花のようにも  見 え、果たして蓮華文なのかどうかという点さえ考える必要があるのかもしれません。種子構成は1+4+8+16で、5型式と同じです。この点か  ら 5型式から退化したとの見方もできますが、作りなどを検討するとその逆で、この種子構成を模倣したのが5型式です。
 この特徴ある瓦は3型式ありますが、各務山田寺式(かかみさんでんじしき)と呼ぶことにします。2型式・3型式は歪みがありますが、1型式は   均整のとれた作りで、この笵が地元で造られたとは思えません。周縁は三重の重圏文ですが、各務郡では周縁重圏文がありません。つまり地元   で独自の出自は困難で、新たな要素が加わるか、笵自体が持ち込まれた可能性が考えられます。複弁蓮華文+重圏文という構成は奈良の石  川 寺の型式です。石川寺は蘇我倉石川麻呂との関わりのある寺ですが、各務山田寺も石川麻呂との伝承があります。
 各務山田寺式成立の時期は分かっていませんが、圧倒的な出土量から見て、山田寺の伽藍に使われたのは間違いなくこの瓦です。特に塔周   辺を何度も踏査してみましたが、明らかに各務山田寺式1型式が散布の主体です。塔心礎からは重文に指定された佐波理椀が出土しており、決   してそれほど新しい時期ではありません。
 各務山田寺式はまだよく分かりませんが、美濃の古代を解明する上で極めて重要な瓦です。
笵傷
古代の笵は木製で、彫る時に生じた傷、あるいは使用中に傷んだ傷が見られます。この傷を確認することによって、同じ笵か類似する別の笵か 区  別することができます。また、この傷の増えるもの、傷の拡大するものはより新しいと言えます。
 たとえば2型式は右図のような笵傷が確認されています。そして、初期の製品は顎面の一つ一つに文様を彫っており、分厚い瓦です。周縁先端   が削られていることも他にない特徴です。しかし、新しくなると顎文様が無くなり、薄く、周縁先端の削りも無くなり、悉く省力化が計られています。   そしてこの中でもより新しいものが中林寺・山田寺・東島に供給されています。恐らく平蔵寺完成後に余剰を供給したのではないでしょうか。
柄山窯址
 柄山窯址は各務郡内で鐙瓦を焼成したことの分かっている唯一の窯址です。ここでは1型式・3型式・5〜7型式の5種類が確認されています。つまり、確認されていないのは2型式と4型式のみ、更に言い換えれば、格子叩きを主体とする鐙瓦のみ作られず、逆に縄目叩きを主体とする鐙瓦は作られています。ここに各務郡内における工人が、いくつかの系統の分かれる可能性を垣間見ることができます。  
 1型式と3型式を比較すると、明らかに3型式の方が文様が崩れており、作りも雑になっています。とすると、同じ窯で作られたことから 1型式 → 3型式 の変遷を想定することができます。3型式は非常に薄く、これも時間的な変化と見ることができます。
各務郡の瓦にはいくつもの問題が含まれており、古代史の宝庫と言えます。このホームページでも少しずつ加えていきたく思っています。
なお、近く 『美濃百踏記第3巻』 を刊行します。このページの内容を含めてもっと詳しく紹介しますので、是非ご購入を検討下さい。

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