弘一の古墳踏査


 栄一の次男 弘一は昭和30年頃から40年代にかけて、岐阜市を中心に古墳を調査して廻りました。
 栄一は昭和30年代まで野外調査に出掛けていましたが、古墳を体系的に探したのは明治末期から昭和20年代までです。したがって、弘一は打合せ た訳ではありませんが、丁度入れ代わるように調査を始めたことになります。私も30年代後半から同行するようになり、土曜の午後、あるいは日曜祭日 になると、父のスクーターに乗って出掛け、古墳を探しなら巻尺で大きさを計り、写真とメモを取りました。
 弘一は大学ノートに記録していましたが、後にB5版のカードに転記しました。現在は新旧重複を含めて2000枚ほどのカードが残っています。写真1は 古い時期の古墳カード1式で、455枚あります(なぜか100枚ほど不足していますが)。これには古墳の位置、現状などが記されています。図2はその内 の西山古墳群の分布図です。図1は栄一の記録です。この地域では栄一の20基から55基に増えており、弘一によって随分詳細が明らかになったと言 えます。
 弘一は岐阜市内を重点的に廻っていたため、伐採などのタイミングを見計らって踏査することができました。そのたため、平地や山麓の調査では栄一 の方が詳細が記されていますが、山地の調査では弘一の方が詳しい場合が少なくありません。
 弘一はその成果として昭和44年に『岐阜市埋蔵文化財調査報告』に541基を掲載しました。後にその改訂版を『岐阜市史』に掲載しました。しかし、こ れらには出土遺物などを一覧表で表しただけで、位置などの詳細が含まれていません。その後、多くの古墳が破壊されたために、このカードが唯一の 記録となったものも多々あります。伝え聞くところによると、現在はどれがどれに相当するのか分からないようで、ということは栄一以来、数十年分の聞 書きが抹消されているということですが、岐阜市においては、弘一の調査を再評価する必要があるのではないでしょうか。
 因みに図3は西山古墳群の4号墳です。天井石の一部と側壁の一部が確認できました。この一群で最大の古墳で学術的にも重要なため、弘一の計 らいで、岐阜市から楢崎彰一先生に依頼して、昭和41年に発掘調査が行なわれました。その結果、3段の葺石を持つ前後径21m、左右径19mの円墳 であることが分かりました。石室全長は12.5mにのぼり、玄室長は5.2m、最大幅は2.3mでした。直刀・金環・須恵器など数十点の遺物が見つかってい ます。
 写真2は全景、写真3は2段目葺石で、前提部墓道の閉塞状態です。写真3は玄室から外へ向かう排水溝です。

図1 栄一調書 西山古墳群


写真1 弘一古墳調査カードの一部

図2 弘一古墳カード 西山古墳群

図3 西山4号墳(弘一カード)

写真2 西山4号墳(昭和41年発掘後)

写真3 葺石2段目正面 墓道閉塞状態

写真4 玄室内側排水溝
 西山4号墳は見学することができます。場所は岐阜市長良西山で、松籟団地の北西、百々ヶ峰の中腹にあります。真福寺を目指して、その西側の墓地 を登った所にあります。見学に際しては石を崩さぬように、また移動しないように注意して下さい。
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