弘一の博物館活動(岐阜市歴史博物館創立まで)


1985年11月、岐阜市歴史博物館が開館した。この日を迎えるにあたっては、弘一の並々ならぬ信念と熱意と私財を投げ打っていた。しかし、そこへ辿り着くまでには、弘一自身の博物館活動があった。ここでは岐阜市歴史博物館の原点となった展覧会を紹介する。



岐阜古代文化展1963年1月2日〜6日(丸物百貨店)


当時は岐阜に博物館がなかったため、市民が資料を見る機会はなかった。そこで弘一の発案で、丸物百貨店特設会場を設置して、岐阜市古代文化展が開催された。展示資料は県内各地から集められた。わずか5日間の展示しては、もったいないような本気度の分かる展示内容、そして設備である。12月31日夜に販売コーナーを片付け、1日に展示ケースを作り、2日未明に展示した。丸物百貨店の全面協力がなければ成し得なかった。



松尾吾策市長と楢崎彰一助教授。テープカットは弘一の趣味で行われ、これ以降、岐阜市主催特別展の恒例となった。現在の岐阜市博でも伝統として受け継がれている。

 たまたま来日していたフランス・パリ美術館館長も、新幹線のない時代にわざわざ来岐され、関係者を驚かせた。










展示資料は、社会教育課の弘一と大野氏が、ライトバンに乗って県内各地を回って借用して回った。借用した資料は、市に保管場所がなかったので、弘一の自宅に仮置きした。言い換えれば、県内重要資料が見られる好機でもある。楢崎先生・八賀さん・真田さんは、我が家に5日間泊まり込んで、資料の撮影・実測・手拓作業を行った。私は各氏の作業をじっと観察していたが、やがて楢崎先生の向かい側に座り込み、じっと見続けた。そのうち「やってみる?」という甘い一言を頂き、飛びついた。これが私の考古基本技術の原点となった。





 1968年4月、弘一は岐阜市立図書館長に就任し、1970年から不定期に企画展を始めた。展示に関する資料や写真の大半が処分されたので、第3回までの写真しか残っていない。他に瓦展を行ったことは聞いているが、私自身も岐阜を離れたため、第1回しか見ておらず、実態はほとんど分からない。



岐阜市古代文化展<西山古墳発掘調査記念> 1970年2月20日〜27日(岐阜市立図書館)





西山古墳出土の遺物は剥き出しで並べられた。現代では考えられない展示手法だが、博物館のない当時では、このような展示会が行われていた。

龍門寺古墳の展示ケースは、成人閲覧室に常設されていた。









岐阜市重要文化財展<文化財保護条令施行15周年記念> 1970年5月20日〜25日(岐阜市立図書館)











<岐阜市天然記念物指定> 浅見コレクション化石展 1970年7月23日〜28日(岐阜市立図書館)


浅見薫氏は私財を投げ打って化石のコレクションに没頭された。その資料は自宅に浅見化石会館を設立して陳列されている。昭和44年に岐阜市天然記念物に指定されたことを記念して、特別展を開催したが、直後に県の指定も受けた。



収集者の浅見さんと弘一









岐阜市歴史博物館創立へ


岐阜市立図書館における企画展は、次第に常設展示を求める市民の声となっていった。そして蒔田浩市長の時に博物館設立構想に展開し、博物館準備室長に就任した。当初の計画は現博物館の三分の一程度のものであったが、「中途半端なものは造るべきでない」、造るなら「市民の誇れるもの」という信念を持っていた。市議会でも相当に叩かれたというが、決して信念を曲げなかったと議会関係者から聞いている。また、文化庁にも交渉して、国から相当額の補助金を得て現在の規模にした。展示では、小川コレクションを一切使わないつもりでいたが、当時は岐阜市に資料がなく、展示担当者の求めに応じて1点、2点と出していった。その結果、開館時には小川コレクションが相当量を占めたことから、館長は公私混同していると非難を受け続けた。その後、資料が増えるに従って新たな寄贈品に差し替えて、限りなく小川コレクションを減らしてきた。しかし、小川コレクションは文化庁も認める地域コレクションである。弘一が館長職を退任した後も、ましてや没後も展示資料に小川コレクションを記載しないのは如何なものか。そして小川の開館までの活動がなければ、現在の岐阜市歴史博物館の存在も規模もあり得なかったことを少しは評価して欲しい。






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