国内最東部の五銖銭

瑞龍寺山頂墳丘墓


瑞龍寺山墳丘墓
西側展望台より見る




瑞龍寺山墳丘墓の主体部 (南東より)
盛土が流出して、岩盤が露呈する。
かつては現状より1mほど高かった筈で、
遺物の大半が既に流出していたと思われる。
 昭和41年、瑞龍寺山の頂上から内行花文鏡が
出土しました。地元の中学生が写生大会で登った
折、山頂の小石を起こした時に発見しました。
 鏡は中学の教員を通じて岐阜市に届けら、そ
れを小川弘一が受けました。早速、復元してみま
したが、破片が相当足りないので、次の日曜日に
弘一と私が現地へ行って収集しました。それでも
なお不足していますが、岩の間に落ちたり、誰か
に投げられたりしたと思っています。
 鏡がばらばらに割れていることから、埋葬時に
意図的に破砕した「破鏡」と理解する人もいます
が、現場の状況を考慮すると、そうではないと思
われます。この場所は岐阜の景勝地で、今のよう
な楽しみのなかった時代には、家族で弁当を持っ
て登ったり、学校の遠足で登ったり、また桜の名
所でもあることから、特に春に登山者の多い山で
した。そこに、遊園地とプラネタリウム、そして登
山のためのリフトまでできたため、一時期は名所
になっていました。この墳丘墓は、今は木が大き
なって見難いですが、当時は濃尾平野を見渡せ
る最高の場所でした。とすると、一体何人が鏡の
上の石を踏んだでしょうか。
 この鏡は中国で作られた長宜子孫鏡で、東日
本では他にない重要な遺物です。そのために文
化庁に求められ、現在は千葉県佐倉市の国立歴
史民俗博物館に所蔵されています。
 この墳丘墓はその後、昭和52年に岐阜市が名
古屋大学に依頼して調査した結果、主体部が2基
存在する弥生時代の墳丘墓であることが分かり
ました。

(国立歴史民俗博物館所蔵)

五銖銭
  鏡の出土よりかなり早い時期に、五銖銭が採集されています。現在、詳しいことが分からないので栄一の記録を探していますが、五銖銭を納 めた栄一の箱には「瑞龍寺山頂」と書かかれております。岐阜の人間にとって「山頂」とは鏡の出土した場所を指します。とすると、五銖銭も鏡と同 じ墓から出土した可能性が高いと思われます。
 五銖銭は中国の貨幣で、紀元前2世紀から700年間ほど造られましたが、この五銖銭はそのうちの後漢五銖銭で、1〜2世紀頃のものではない かと考えています。前漢のものに比べると薄手で軽く、「五」の字が曲線的な点に特徴があります。
 表の左上に小さな孔が穿たれており、そのために亀裂が入っています。ペンダントにでもしたのでしょうか。また、裏面の上部に「十」のような二 次的加工も見られます。




瑞龍寺山頂出土五銖銭
五銖銭の出土地は西日本に限られており、ほとんどが北九州周辺です。弥生時代は滋賀県
鴨田遺跡が東限とさ
れていますが、実際は美濃の瑞龍寺山です。弥生時代の五銖銭出土遺跡は、10箇所にも及
びません。この点だけ
でも、瑞龍寺山の重要性が理解できます。
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