土田渡古墳群
(保存申請中に消滅した古墳群)

 可児市土田渡に百基を越す古墳群がありました。栄一が昭和初期に調べた時には、開墾されて古墳の消滅した畑もありましたが、ま だ、ほとんどの古墳が林の中に残っておりました。

昭和6年の土田渡古墳群 (西側の八幡古墳一帯は省略)
 美濃に古墳群はいくらでもありますが、栄一によると、この古墳群 は非常に状態の良い古墳群だったそうです。そのため、昭和7年に 県に対して「岐阜県史蹟標識」を建てるように申請しました。
 ところが、昭和8年の秋、名古屋の人から渡古墳群が開墾されて いるという知らせが栄一に届き、慌てて11月26日に行きましたが、 手遅れでした。ほとんどの古墳は破壊されて、僅かに石室の基底 部と、そしてぽつんと1基の石棺のみ残っていました(右図)。

 下の写真は人から贈られたものですが、昭和8年9月7日に撮影 されたものです。この時点では石室の石材がまだ残っており、周辺 には墳丘も見られます。せめてこの時点で栄一に連絡が入っていれ ば、どれほどの記録ができたでしょうか。残念でなりません。

昭和8年11月26日

昭和8年9月7日

昭和8年9月7日


 右図はこの時、壊された
地域で、上図は開墾前の昭
和6年の状態です。下図は
開墾後に石室基底部だけと
なった状態です。栄一が失
意の中で、これだけでも計
測してくれたのは幸いでし
た。
 重要な史蹟を無為に壊さ
れてしまったことに憤りを覚
え、今後、私有地とは言え、
遺跡地の開発には申請を必
要とすることを広く一般に知
らしめるように、そして、せ
めて始末書くらいは取るよう
にと県に進言したそうです。
 石棺の出土した古墳は
山古墳
と呼ばれており、この
一群の中では最も大きな古
墳です。この石棺は現存す
る岐阜出土の石棺の中では
最も姿の良いもので、現在、
南山大学博物館に保管され
ています。どういう経緯か知
りませんが、このような重い
ものを保管して貰えたことは
幸いで、感謝しなければなり
ません。

開墾前(昭和6年2月1日)

開墾後、石室の基底部のみとなった状態(昭和8年11月26日)
 右図は渡古墳群の中で最
も西に存在する八幡古墳周
辺です。八幡古墳は円墳と
されていますが、南側に方
形の高まりがあり、あたかも
前方後円墳のような形状で
す。栄一自身は前方後円墳
と見做すに根拠不十分と考
えていたようですが、気にな
っていたようで計測していま
す。幅6間、長さ4間、高さ6
尺とあります。今後、確認す
る必要があるでしょう。
 また、須恵器の頁に掲載
した三足壺は、この時の出
土かどうか分かりませんが、
渡古墳群のどれかから出土
した資料です。岐阜県内か
ら出土した三足壺は2点あ
りますが、所在の確認でき
るのは当コレクションのこの
資料だけです。県内を代表
する一つで、このような重要
な資料を出土した古墳群が
調査もされずに消滅したこと
は、大変残念なことです。
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